一族の歴史

出身地、アイルランド

18世紀末、若きアイルランド人ワイン商バーナード・オフェラン(1770年 – 1841年)は、故郷ティペラリーの町を離れ、ボルドーへと移住します。行き当たりばったりの決断ではありません。ボルドーの町は当時すでにブリテン諸島との交易の要所として栄えており、ボルドーワインを取引する商社同士の関係は極めて密接なものでした。そんな時代、婚姻関係が結ばれることもあり、さらなる連携へとつながりました。その好例がベルナール・フェランとボルドーワイン取引業界の重鎮、ダニエル・ゲスティエ氏の娘の結婚です。義父の豊富な経験に支えられ、ベルナール・フェランは自身のワインを生産する事業に着手します。

ワインへの情熱

1805年にはサンテステフ村に位置するクロ・ド・ガラメイを、そして1810年にはドメーヌ・セギュール・ド・カバナックを購入するに至ります。

Phélan Ségur from the sky

「メドック式」醸造庫の先駆けとして

サンテステフの小さな港まで延々と広がる草原。その広大な敷地の中心、河口を見下ろす丘のいただきに「パラディオ建築」のシャトーはたたずんでいます。オーナー自らの事業に対する積極姿勢のあらわれというべきでしょうか、フェラン家の人々は旧来の建築様式との決別をあえて図り、ワインが中心をなすシャトーを建造します。ワイン生産から遊離した豪華な城館を建てる代わりに、優美な空間へと完璧に整備された敷地の中、居住スペースとなる建物の内部に醸造庫および樽貯蔵庫を設置する選択をします。フェラン家によって整備されたこの設備は、「メドック式」醸造庫の先駆け的な建物と位置づけられています。

フェラン家、1860年頃

Phélan family around 1860

フランク・フェラン、ベルナール・フェランの息子

エリザ・フェラン、ベルナール・フェランの妻

ウィルヘルミーヌ・フェラン、フランク・フェランの妻

Accounting book

フランク・フェラン、メドックの名士

1841年、ベルナールの死後、息子のフランク(1820年 – 1883年)がこの広大なドメーヌを引き継ぎます。以降、それまでのふたつの名称を組み合わせ、「シャトー・セギュール・ド・ガラメイ」と呼ばれます。フランクはアイルランド系というより生粋のメドック人であり、自らのワイナリーの名声とワインの品質向上のためにその生涯を捧げます。また、サンテステフ村の村長に就任し、30年間、地域行政の長として活躍した他、ジョンストン家、バルトン家、クラーク家、リンチ家といった、アイルランド出身者で構成されるボルドー・アイルランド人会の運営にも尽力しています。

20世紀初頭、「シャトー・セギュール・ド・ガラメイ」はあらたに「シャトー・フェラン・セギュール」へと名称を変更します。高貴さただようクラシシズムとシャトーに伝わる価値を想い起こさせ、伝統を継承しつつ革新にも積極的に取り組む姿勢を象徴する名称です。